三恨の政丞

屛山書院
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三恨の政丞

三恨の政丞

先生は老年の時に、‘自分には三つの恨み(三恨)がある’と述懐した。

“王と親の恩恵にむくえなかったことが、その一であり、 二つ目は、位が度が過ぎるほど高かったが、即官職から退けず、 三つ目は、老いぼれたのか‘道を学ぶ(道学)’という意思を持ったが、成し遂げたものがない。”

どんなに検謙虚で謙遜な生き方であろうか!

領議政から退けて故郷に帰ってきたが家計が貧困で、ドングリとナムル粥で延命したという。1605年(宣祖38年)に大洪水によって家を失い、川渡りの玉淵精舍でしばし過ごした後、9月に屛山邑鶴駕山の麓にある西薇里に引っ越した。

翌年の3月の初めに草家三間(弄丸齋)を行い、隠居して2年後である1607年(宣祖40年)、旧暦5月6日に、66才の日記で弄丸齋から逝世した。

その時の長男はすでに世を捨てており、11才だった孫がいたが、かれが拙齋・元之である。

10年間政丞の位置にいたにも関わらず、生前の淸白吏祿選が語るように死後も素朴な葬儀が行われたが、これは先生の遺命があったからである。墓所は屛山邑壽洞に礼葬されている。

墓所には‘領議政文忠公西厓柳先生之墓’という墓前碑だけあり、神道碑は遺命によって立てなかった。貞敬夫人全州李氏が副葬された。

碑は先生の孫である拙齋・柳元之の墓碣銘と、1764年(英祖40年)外6代孫である大山・李象靖の字であり、6代孫の도사 臨汝齋 류규が立てた。

齋室である壽洞齋舍は規模が相当あるが、墓所があるところから峠を一つ越えたところに位置している。元々재사の近くに墓所があったが、孫の拙齋が成長してここに場所を移し免離したと伝われる。 。