西厓柳成龍

屛山書院
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西厓柳成龍

西厓柳成龍

ソエ リュ・ソンリョン(西厓 柳成龍、1542∼1607)

字は而見、號は西厓であり、本貫は豊山である。退溪・李滉(1501∼1570)の一番弟子であり、鶴峰・金誠一(1538∼1593)と共に嶺南儒学と退溪学問の基盤を作った。

1564年(明宗19年)に生員、進士になり、翌年成均館に入って修学したあと、25才の時、1566年に別試文科に倂科で合格した。承文院權知副正字で始めて官吏になり、藝文館、春秋館など、主に学芸職主要職制を歴任した。

優れた学問と公正無事 な政治的力量によって、王から抜擢され、1582年년(41才)の時には正三品堂上官の大司諫、右副承旨、都承旨を経て、從二品官である、大司憲についた。

1590年には右議政に昇格し、光國功臣3等として豊原府院君に冊された。1591年、吏曹判書を兼任し、続いて左議政に登り、倭乱に備えて刑曹判書・權慄を義州牧使に、井邑縣監・李舜臣を全羅道左水使に推挙させた。

1592年4月に壬辰倭亂が勃発したときには兵曹判書を兼任して軍務を総括した。領議政に登り四道都體察使を兼任しながら軍事を総指揮し、軍隊養成と共に軍備の拡充に尽力した。壬辰倭亂の全期間の間国政の中心から国乱の打開のために渾身を込めて尽くした。

先生は道学、文章、字、德行などで名を残し、特に淸白吏として、後学達の厚い信望を得た。儒生達の推仰を受け、安東屛山書院に配享され、弟子達と子孫達、そして屛山一帯の名門家紋の連合として設立・維持された。

たとえ、書院は西厓の死後に建てられたが、その跡は西厓自身が生前に定めたところである。

著書に《西厓集》《愼終錄》 《懲毖錄》《雲巖雜記》《喪禮考證》《戊午黨譜》《鍼經要義》などがあり、編著として《大學衍義抄》《皇華集》《九經衍義》《旌忠錄》《孝經大義》など多数である。諡號は‘文忠’である。